「あたりまえ」について
今日は本に縁がある日なのでしょうか。
おもしろそうな本発見。
時間があれば読みたいデス。
『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス 』
好井 裕明 (著)

「あたりまえ」ッテ決めつけず、立ち止まって考えるコトは、
社会学に限らず、何をするにも重要なコトなんじゃないかッテ思う。
だって、その「あたりまえ」を「あたりまえ」たらしめるのは、
今までそのヒトが生きてきた中で培った価値観や文化がカンケーしているわけで
その何かがちょっと違うダケで、
まったく反対のコトを「あたりまえ」だって思っていた可能性だってあるじゃないデスか?
他のヒトには「あたりまえ」のコトでも、そのヒトの人生の中で
その事象が登場してこなかったのであれば
それは「あたりまえ」にはなりえず、見知らぬ何かでしかない。
大抵の場合、「あたりまえ」が通じない相手に対し
常識知らずだとか、あたまが悪いなどと、私たちは思いがちだ。
例えばエスカレーター。
早く上るヒトのために片側をあけるのがルールになっているが
(ソースないケド、業者的には危ないから歩かないで2列に整列して乗ってほしいらしい)
関西と関東では、どちらをあけるかで位置が異なっている。
コレってゆーのは、知っているヒトにとっては「あたりまえ」のコトだけど
知らないヒトにとっては「なんで?」ッテゆーハナシになる。
ここで「だから田舎者はダメなんだよ」とか「常識がなってない」とかゆーヒトは、
あまり社会学向きのヒトではないんじゃないかと思う。
(別にまじ社会学専攻者でないので、あくまで弱めに発言w)
むしろ、その人が今までどう生きてきたから
エスカレーターのルールを知らないでいて、「なんで?」と思ったりするんだろう
ッテ考えられるヒトのほうが、向いてる学問なんだと思う。
大体、ルールなんて人間がいつかどこかで勝手に作ったもので、
世の中に「あたりまえ」なんて言いきれるコトなんて、ないと思うよ。
神様はいると思いますか?
あたりまえです。
いいえちがいます。
別にどちらの回答であっても、どちらでなくとも構わないと思う。
しかし、なぜ自分はそういう風に思っているのかを明らかにするコトは
大切なコトだと思う。
その経緯を知るコトで、自分ッテゆー存在が、客観的に感じられるんじゃないかと思う。
そして自分を知るコトは、他人を知るコトに繋がる。
「あたりまえ」ッテ言いきるコトは、自分を相手に押し付けてるッテコト。
そこには他者の考えを受容する受け皿がない。
そういった否定から、バラエティーに富んだ人間関係は生まれない。
おもしろい考えもわくわくするような発見にも出会えない。
自分の枠の中で、生きているダケなんだから。
たらたら書いてしまったケド、まぁ要するに
本読んでみたいな、ッテ、それダケなんデスww
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


